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人生の中で「もしあの時」と思うことが少なからずあるかと思います。
もしあの事件が数年後にずれていたら、日本の歴史は大きく変わっていたのかもしれません。
 
日本がまだ江戸幕府の施政下にあった時代、ペリーが浦賀に来航しました。ご存知のとおりその当時の日本は鎖国をしていましたし、巨大な蒸気船を作る造船技術が国内に存在しなかったこともあって日本中が蜂の巣をつついたような騒ぎだったようです。本当は1年も前からペリーが来ることを幕府は知っていたようですが、混乱を避けるために秘密にしていたことから世の中は大騒ぎになってしまったようです。ハリウッド映画に出てくる巨大な宇宙船が突然攻め込んでくるような印象だったのでしょう。
 
 ペリー来航が1853年ですが、これが6年後にずれていたら歴史が大きく変わっていたかもしれません。ここには現代において最も重要である資源、石油が関わっています。

 ペリーが日本に開国を迫ってきたのには理由があります。当時は捕鯨が非常に重要な産業でした。というのも、鯨からとれる油 がランプ用の灯油と潤滑油として使われており、需要が非常に大きかったのです。そのほかにも髭や骨がコルセットの材料に使われたりしていたようですが、ペ リーが来航した時代の目的は鯨油の獲得でした。日本では食肉というイメージが強いかと思いますが、当時は純粋に鯨油を採取する為の燃料である薪や、蒸気船 の燃料である石炭、乗組員の食料や水を調達するための補給基地として日本に白羽の矢が立ったわけです。そのほかにもアジア市場の開拓という使命もあったよ うです。

 ところで、ペリーが来航した6年後に何が起きたかというと、石油産業がアメリカのペンシルバニア州で誕生したのです。

  1859年にEdwin Drakeが原油の採取に成功し、それにより鯨油から石油に需要はシフトしました。わざわざ外洋に出て年月と命をかける捕鯨よりも安定的に供給され価格の 安い原油に移るのは自然だったと言えます。米国の石油生産量は1860年代には年間50万バレル、1870代には10倍の520万バレルの生産量になりま した(JXホールディングスHPより)。国際捕鯨委員会の基準でいくと最大のシロナガスクジラ一頭で110バレルの鯨油がとれるので60年代で4545頭 分、70年代で47200頭分になる計算です。当時捕鯨について正しい統計が存在しないため正確性に欠きますが、年間1万頭ほど捕鯨していたと考えられま すから、石油の出現はとてつもないイノベーションであったのでしょう。その後米国は1930年代まで世界最大の産油国であり続けます。

 そ の後も米国における原油の生産量は伸び続け、1970年代には日量1100万バレルを超えるまでになります。(BP統計より)これが1990年代に入ると 急速に落ち込み、2007年にはピーク時のおよそ6 割の680万バレルになります。 一方で消費量はその間も増えていましたから輸入量は増えるわけです。消費量は2003年から07年まで日量2000万バレルを消費していましたが、景気の 影響を受けて最近は1900万バレル近辺で推移しています。

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 昨年から言われている原油価格の急落は、米国における需要と供給の差が急速に縮まったことにあると言えます。現在の米国の原油生産量は日量 1000万バレルですから、07年から考えれば大きな回復ですし、消費量は100万バレル減っています。これはご存知のとおりシェールオイルによるもの で、その影響が米国内における原油に対する投資対象としての弱気マインドを助長させ価格を下げていると言えます。一方で、米国におけるシェールオイルを含 めた確認埋蔵量から算出した採掘可能年数は12年程度ですから、消費量がこのまま推移するとなると需要と供給の差は再び開くことになると考えられます。も ちろん採掘技術や油田開発技術の向上によってそれらが解消する可能性もあります。

 歴史において「もしあの時」ということは存在しませんが、その背景を読み解くことで何故それを人類が選択したのかを理解することが出来ます。そこにこそ時代の流れである大局というものを理解する鍵が潜んでいると信じています。

【最高投資責任者 草刈 貴弘】

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