石川県金沢は窯元・梅山3代目として生まれた陶芸家・中村錦平氏。20代は器を焼き、30代はアメリカへ。帰国後、東京・青山に窯を設け”東京焼”展で国から表彰される。 風を掴むかのようだった、錦平氏とのインタヴュー。
氏のメッセージは文字に置き換えた瞬間、本来の意味を逸れて消えていく。
激しく、そして優しい風。正体を掴もうとすれば、すでに全身を通り抜けている。
わずかな温もりと、次なる気配を残して。
“ちゃわんや”に生まれて
すべての日本人が貧しさと喪失感から立ち直らねばならなかった戦後。今でこそ国内外で脚光を浴びる窯元の跡継ぎ、見通しは暗かった。欧米から寄せる近代化の波に「あらゆる古いものが否定される」なか、陶芸も例外ではなかった。
「器の何が面白い?」近代の造形を学ぼうとした金沢美大は8か月で中退。
使い手の側から器を学ぼうと、魯山人氏が手がけた料亭・星ヶ岡茶寮の料理長のもとに丁稚。時代をえぐる食芸術に出会い愕然。器は、料理・しつらえと共に手仕事と機械がせめぎ合う時代を映す一部だった。ちゃわんやの由緒がひっくり返される。
「伝統って何だ?」
さらに1964年、東京オリンピックに併催の「現代国際陶芸展」。陶芸王国日本は敗北した。伝統の技比べで、表現に乏しかった。他方、反戦デモ・ヒッピー・マリファナ・ロックなど「時代のうめき」と共に生まれたような米国陶芸は目を見張らせた。その渦中、錦平氏は30代で渡米。ロックフェラー財団からフェローに選ばれたのだ。
しかし、政治・文化の歪みを若者が自由に発露する米国での対比に、古九谷の出自は耐え難く、スランプに陥る。日本-西欧、用-美、伝統-自由、揺さぶられてもがく。
「陶芸を止めようか。」しかし、今は言える。「挫折ほど、若い作り手にとって有意義な経験はない。」
「器の何が面白い?」近代の造形を学ぼうとした金沢美大は8か月で中退。
使い手の側から器を学ぼうと、魯山人氏が手がけた料亭・星ヶ岡茶寮の料理長のもとに丁稚。時代をえぐる食芸術に出会い愕然。器は、料理・しつらえと共に手仕事と機械がせめぎ合う時代を映す一部だった。ちゃわんやの由緒がひっくり返される。
「伝統って何だ?」
さらに1964年、東京オリンピックに併催の「現代国際陶芸展」。陶芸王国日本は敗北した。伝統の技比べで、表現に乏しかった。他方、反戦デモ・ヒッピー・マリファナ・ロックなど「時代のうめき」と共に生まれたような米国陶芸は目を見張らせた。その渦中、錦平氏は30代で渡米。ロックフェラー財団からフェローに選ばれたのだ。
しかし、政治・文化の歪みを若者が自由に発露する米国での対比に、古九谷の出自は耐え難く、スランプに陥る。日本-西欧、用-美、伝統-自由、揺さぶられてもがく。
「陶芸を止めようか。」しかし、今は言える。「挫折ほど、若い作り手にとって有意義な経験はない。」
さようなら形式主義
傷だらけになってでも、高鳴る感性を頼りに未踏の領域で模索する。やがて見えてきた、新しい時代にどう切り込むか。
「伝統は、技法じゃない。いくら技巧を凝らしても、守れませんよ。九谷を時代の風に当てて、揺さぶる。自己批判しながら強くなり、残っていく。新しい時代の可能性、見えてくるでしょ。」
例えば北欧風○○や柳宗悦の民芸的△△。「欧米の後追い」も「伝統工芸への回帰」も成り行きは同じ、形式主義に陥る。「伝統を否定したいわけじゃない。むしろ、好きなるがゆえに、いい加減な伝統の捉え方では申し訳ない。」
「伝統は、技法じゃない。いくら技巧を凝らしても、守れませんよ。九谷を時代の風に当てて、揺さぶる。自己批判しながら強くなり、残っていく。新しい時代の可能性、見えてくるでしょ。」
例えば北欧風○○や柳宗悦の民芸的△△。「欧米の後追い」も「伝統工芸への回帰」も成り行きは同じ、形式主義に陥る。「伝統を否定したいわけじゃない。むしろ、好きなるがゆえに、いい加減な伝統の捉え方では申し訳ない。」
モノからコトへ
そんな錦平氏は「東京焼・メタセラミックスで現在をさぐる」展で芸術選奨文部大臣賞を授かる。(左上写真)
壺・皿・茶碗ではない。高さ7m 直径2mの巨大な円筒(陶板)、そして10t余りのぶち割った高圧碍子が取り巻く空間だ。土は出自不明の工業用、窯は電気炉。正直、一目では訳が分からない。しかし、じっと見ていると作品と自分との距離感が見えてくる。
「常識」の眼で見る者を挑発するようで、「お前さん次第でいいんだよ、良いも悪いも。」と無知・矛盾を包み込む作品。
権威に確立された工芸品(モノ)ではない。その価値は作品と向かい合う個人との関係性(コト)に委ねられている。工業化から情報化、発展経済から成熟経済、国家主導から生活者中心へ。社会の構造変化を醸すARTがそこに。
一方、稼ぐための「伝統のリメイク」や「形骸化する茶碗づくり」は避ける。
多摩美での教師時分より、若者には背中でArtistとしての生き様を示そうとしてきた。新たな時代の文脈を読み込もうとチャレンジする教え子の作品が、守旧派の評価で縛られるようなことがあれば身を賭して突っぱねる。「おもしろいじゃない。」時代を衝くのは若者の自由な感性と直感だと。
さらに、意欲と才気溢れる若者が「食う」ために「制作」を止めるのが惜しく、自身が米国留学のきっかけともなった財団に寄付もする。それは錦平氏の財産づくりの目的でもあった。
壺・皿・茶碗ではない。高さ7m 直径2mの巨大な円筒(陶板)、そして10t余りのぶち割った高圧碍子が取り巻く空間だ。土は出自不明の工業用、窯は電気炉。正直、一目では訳が分からない。しかし、じっと見ていると作品と自分との距離感が見えてくる。
「常識」の眼で見る者を挑発するようで、「お前さん次第でいいんだよ、良いも悪いも。」と無知・矛盾を包み込む作品。
権威に確立された工芸品(モノ)ではない。その価値は作品と向かい合う個人との関係性(コト)に委ねられている。工業化から情報化、発展経済から成熟経済、国家主導から生活者中心へ。社会の構造変化を醸すARTがそこに。
一方、稼ぐための「伝統のリメイク」や「形骸化する茶碗づくり」は避ける。
多摩美での教師時分より、若者には背中でArtistとしての生き様を示そうとしてきた。新たな時代の文脈を読み込もうとチャレンジする教え子の作品が、守旧派の評価で縛られるようなことがあれば身を賭して突っぱねる。「おもしろいじゃない。」時代を衝くのは若者の自由な感性と直感だと。
さらに、意欲と才気溢れる若者が「食う」ために「制作」を止めるのが惜しく、自身が米国留学のきっかけともなった財団に寄付もする。それは錦平氏の財産づくりの目的でもあった。
光
今も陶芸・ART・長期投資の垣根を越えて走る錦平氏、80歳。縄文土器に始まった日本の焼きものに、情報化文明を深める21世紀、どうした働きを背負わせられるか。時代・社会・文明とやりとりできる焼きものを、今日も探ろうとしている。
「新しい時代、何が待っているか分からないよ。だからこそ、走っていこうじゃない。」
吹く風に聴こえてきた。
6月、東京・青山スパイラルガーデンで再び錦平氏の個展が開催される。「暮らしにメリ・ハリを」と造形されたカップ・トレイ・花入れ・香炉など。視て触って時代を体験する”東京焼”、いかがですか?
【直販部 佐藤 紘史】
中村錦平
東京焼小品 賣りつくし展(仮)
6月10日(水)~14日(日) 11:00~20:00 入場無料
スパイラルガーデン
東京都港区青山5-6-23
「表参道」駅 徒歩1分