昨今、ESGやSDGsという言葉を目にする機会が増えました。SDGsとその前身のMDGsが定められESG投資が注目される背景には、経済成長の恩恵を受けた国が一部にとどまり、多くの国の人々は貧困状態にあること、経済活動で環境破壊が深刻化していること、女性や子供の人権侵害が未だになくならないことなどを解決しようとする国際社会の決意と持続可能な社会の実現に投資家も責任を負うべきであるという意識の広がりがあります。
しかしESG、SDGsの実現には、現在の私たちの知恵では解決が難しい問題が存在します。その問題は私たちの生活や財産づくりと不可分であること、ESG、SDGsが傲慢なきれいごとに陥らないために、直視を避けてはいけないことを本稿でお伝えしたいと思います。
◆理念と現実とのジレンマ
まず、CO2排出量削減はESG、SDGs共に掲げていますが、日本は年間一人当たりCO2排出量が9トンと世界で9番目に多い国です。これは日本人が環境に無頓着ということではなく、2011年の事故以来、原子力発電所は新規建設が現実的に不可能となったこと、出力が自然任せの風力や太陽光は電力の安定供給においてリスク要因であり、コストと信頼性から現実的な解として火力に頼らざるを得ないためです。
人権についても私たちは大きなジレンマを抱えています。2021年1月19日、当時のトランプ政権のポンペイオ元国務長官は、新疆ウイグル自治区におけるウイグル族への中国政府の行為をジェノサイド(民族大量虐殺)と認定し、バイデン政権のブリンケン国務長官もこの認定を支持しました。また、香港で中国政府が民主活動家を多数逮捕していることについても、国際社会は批判を強めています。
しかし一方で、中国の世界経済における重要性が増していることも事実です。2020年は主要国の中で中国のみがGDPプラス成長を維持しました。日本の企業にとっても、自動車、家電、化学、電機、半導体、ロボット、小売等のいずれの業界においても業績回復に中国事業が貢献しています。
少数民族や民主化運動の弾圧と経済的なプレゼンスの拡大とが併存している中国という国で、ビジネスを営む企業への投資を止めるべきなのか、これはすぐに答えが出せる問題ではありません。しかし目を背けて良い問題ではなく、ましてや「知らなかった」で済ませられるものではありません。
◆投資家は裁定者ではない
ESG、SDGsは善の概念と不可分です。それでは、投資家が企業を善悪の秤で評価することは、正義の女神や閻魔の裁定のような行為なのでしょうか。違うならば、そのとき投資家はどのような立ち位置であるべきなのでしょうか。
そもそも企業の財務指標は過去の情報ですが、ほとんどの場合において投資リターンの源泉は企業が将来稼ぐ利益です。そのためESG、SDGsの視点がなくとも、企業の持続可能性を様々な角度で分析し、企業を深く理解することが必要です。
少なくとも、「どのような理由で顧客はこの企業の商品を買い、市場は今後どのようになるのか」、「研究開発、生産、マーケティング、買収などでどのような取り組みをしているのか」、「ライバル企業はどのような動きをしているのか」、「売上や利益、コストはどのようになっているのか」、「将来のチャンス、リスクを踏まえて、いくらでなら投資できるか」といった質問に答えられなければなりません。
その上で「お客さまに預けていただいたお金を、この企業に投資する意義は何か」という問いの答えを、私たちは自分で考えます。それでも、集められる情報には限りがある以上、不完全な前提に基づいて考えざるを得ません。ゆえに私たちは良い・悪いを決める裁定者ではなく「さわかみファンドとして」という視点に立ちます。
◆倫理は実践にこそ価値がある
以上の通りESGやSDGsには、理想と現実との間に存在するジレンマや、判断主体の問題が存在します。そこに関心を持たず、ただ無邪気にESG、SDGsをありがたがるならば、投資家として無責任と言わざるを得ません。
倫理は実践にこそ価値があります。その一歩は足元をよく見ることです。私たちは「自分は何も知らない」ことを前提とし、だからこそ事実をできる限り集め、厳しい検証にも堪えられるよう筋道を立てた投資判断を行います。温かな心と冷徹な頭脳こそが、不確実な未来からお客さまの財産を守り、育てるために不可欠であると信じるからです。
【アナリスト 加地 健太郎】