柴 実業家になろうと決めた後、事業分野や事業テーマを探していました。医師の世界では、ほとんど出番なし、患者や看護師からも積極的な医療対応をあまり期待されていないような当直を俗に“寝当直”と言いますが、医心館の事業モデルを思いついたのは、まさに寝当直のときでした。現場は看護師だけで仕事が完結され、もし急変があれば主治医の先生に連絡が行き、決められた約束事項に基づいて対応するか救急搬送するという流れで、当直アルバイトの私に出番はありません。それでも、病院は24時間365日医師の配置が義務付けられている。「私を単に寝かしておくだけで用足りるのであれば、この病院では果たして医師が常駐している必要があるのか。ならばいっそのこと、病院における医師の機能を地域にいる開業医の先生へアウトソーシングしたらどうだろうか? それが可能なら、医療資源の配分の適正化が進むし、病院はコスト負担減で身軽になって経営状態の改善を見込めるし、ほかの様々な医療課題も併せて解決できそうだ…」と考えを巡らせていきました。それで実業家としての事業テーマと事業仮説が決まりました。それを検証するにはどこが良いだろうかと考えた時に、中核病院である県立病院が次々と閉院に追い込まれていて、地域医療が最も危機に瀕していた当時の岩手県なら仮説検証ができるのではないかと考えました。社会実験を試みる研究者の発想でした。
草 需要が多く成功しそうな場所ではなく、最も課題が多そうなところを選ぶという発想がビジネスマンではなく研究者ですね。仮説検証の場に相応しいという考え方でしたか。岩手に移住されてから、それはすぐに軌道に乗ったのでしょうか?
柴 岩手に移住したものの、地縁や血縁があるわけではなく、実績も資金力もない全くのゼロからのスタートでした。行政や病院、金融機関を回って自分の考えを説明したのですが、「この人は何だろう」という感じで最初は全く相手にされませんでした。それでも挫けずに通い続けるうちに、様々な情報と伝手を得ることができました。経営難にある病院はどこか、地域ではどんな課題や取組があるか、活動のキーパーソンはだれか。そして、関係しそうな人物を紹介いただけるようなところまで辿り着いたのです。しかし、その先にはまだ長く遠い道が続いていました。病院に行くと医師が不足しているので院長や事務長は会ってくれるのですが…。それこそ医師としては大歓迎され、現場で医師として働きながら岩手という土地に受け入れてもらい、何か実りそうな話を耳にすればすぐに駆け付け必死に食らいついていきました。研究者としてのキャリアから降りるという大きなコストを払ったわけですし、周囲を巻き込みながら半ば強行するかたちでの岩手移住でしたから当然にして必死です。そんな折、東日本大震災が起きました。とにかく今の自分のできることを一生懸命にしようと考えました。発災から三ヶ月間休むことなく、自分ができる支援は何でもしました。このときもまた、とにかく必死でした。
現場での検証を繰り返して生まれた医心館スタイル
草 まだ医心館事業への具体的な転機が見えません。道のりはなかなか長いですね。
柴 当然のことながら、東日本大震災の発生は想定外でした。岩手県という土地は、発災以前から医師や病院をはじめとした医療資源の存在に課題がありました。それは、国公立大学の医学部がないために医師が供給されにくい土地であるという“量”の問題、また四国とほぼ同等の面積を有する県ですから偏在せざるを得ない土地であるという“地理”の問題です。医師がいなければ、病院は外来も入院もままならない。地域医療をどうにか維持するために、ひとりの医師が外来も入院も、それこそ四六時中、ワン・オペレーションするような状況です。医師も人間ですから、そのような状況をいつまでも続けることはできません。ただでさえ医師不足であったものが、退職でさらに不足する。悪循環のはじまりです。いよいよ病院は外来や入院の規模を縮小せざるを得ない。そうなれば、病院は経営難となり、果てに閉院・廃院となる。このようなことが起こりやすい土地、すでに起こっている土地を“医療過疎地”と表現します。東日本大震災が発生して、甚大な人的・物理的な被害がありましたから、岩手県ではより一層その状況が悪化しました。
一方で、ゼロからの活動スタートは想定内でした。先ほど医療過疎地のことをお話しましたが、人口過疎化という問題は想像以上に深刻でした。若い人は都会に出て行ってしまう。若い人がいなければ商売は始まらないし、街に活気も生まれない。やがては医師もいなくなり、病院も閉院・廃院になり、自分たちの老後も心配…そんな不安が渦巻いているのは岩手県に限ったことではありません、日本全国にある過疎地域の現状なのです。結局のところ、そういった医療にしろ、人口にしろ過疎地の課題は被災前も後も変わっていません。このような過疎地域で、私は住民たちと時間をかけて話をして、身の回りに起こっている問題をひとつずつ解決していこうと考えました。見栄を張って大風呂敷を広げても仕方ありません。自分ができることは何かを見極め、努力を重ねて信頼を得ていくしかないと考えた訳です。そしてこの頃、閉鎖予定の公立病院の病床部分を町民らとともに特別養護老人ホームへ転換するプロジェクトに参画し、成功を収めることができました。また、自ら社会福祉法人を設立して特別養護老人ホームの開設に至るなど、少しずつではあるものの社会活動家として評価をいただくようになってきました。しかし、当初目指した起業家としての成果はなかなか出せず、内心では焦る日々が続きました。