ESG投資がふるわない。国連による原則論の提唱が06年だったと記憶しているが、それ以降35兆ドル規模まで成長したものの、足元では米国を中心にESG投資からお金が流出している。いや、否定的な発言さえ飛び交っているのだ。いったい何が起こっているのか?
自由と責任の相反
E=環境・S=社会・G=企業統治に配慮した企業への投資は、投資家の社会的責任を果たす“望むべき投資手法”だと考えられる。それが否定される理由は、投資に政治色がつくやらウォッシュ問題やら以前に、そもそも一般的な金融商品と比べリターンが劣っているからだろう。なぜリターンに差が生まれるのか? 「社会や関係者全体の利益追求が株主に犠牲を強いるのであれば受託者責任に反する」とインパクト投資への反対論を訴える運用会社が存在するように、ESG投資に何らかの欠陥があるのか。
私見だが、リターンが劣後する要因の一つが機会損失だ。株価が目先騰がりそうな企業を発見してもESGスクリーニングを満たせず選択できない。ESG投資に限らず、ファンドマネージャー(以下、FM)から自由(最良執行)を奪うことはリターン最大化の阻害につながる。もちろん別問題としてFMの力量は重要であるが、最大リターンを狙うならESGを含むテーマや特徴のすべてを捨てるべきだろう(資金が集まらず運用そのものができなくなると想像するが)。
背景にあるのが時間許容度の欠落だ。運用会社は原則、“過去~現在”しか評価せず、未来の可能性の夢追いを避ける。説明責任やリスクマネジメントの呪縛を原因に。または、サラリーマンFMゆえの限界だろう。例えば、現状はESGのうちEとGを満たせていない企業があるとし、今後の努力次第で片方または両方が改善すると見込めれば、企業価値の向上、更には株価の上昇へと期待が持てる。課題が多いことは可能性が顕在化している証、その好転こそが投資の醍醐味のはずだ。しかし「EとGが不十分なので投資対象から外した」の方が説明責任を果たせてしまう。
与えられた十分な時間の中で自由に判断することが最適だとわかっていても、合理的に説明できないリスクは冒せない。判断を伴う場面でありがちなジレンマだが、これこそがリターンの劣化であり、真の投資運用が成されない所以である。
コモディティに堕ちた金融商品
“投資”が単なる金融商品となり、もはやコモディティにまで堕ちた。個人投資家はコモディティとしての金融商品を探しているわけで、リターンさえ出れば商品性などどうでもよいのだ。インデックスファンドであろうがESGファンドであろうが“儲かるかどうか”が論点となる。しかし金融業者は儲けを約束できない。したがって約束のできる手数料・報酬を引き下げるしか手段がなくなる。
2024年、新NISAをきっかけに個人の資産運用が盛んになってきている。しかし現在の“1人1口座”を理由に金融業者は安価または無料とした手数料・報酬を餌に顧客獲得に躍起だ。選択肢がそれしかないから。結果、採算性を少しでも確保すべく“投資”をやめ、低コストの金融商品を“運用”させるという技を見出した。
鶏が先か、卵が先か。ともあれこの流れは誰にも止められない。いずれ価格競争の限界が到来し、コモディティ販売に疲弊した金融機関が消滅していく末路が見える。
これが本当に望んだ道なのだろうか? 運用の果てが単なるコモディティの維持運営であるなら、我々は運用そのものをやめてもよいのではないかと真剣に考える。むしろ思い切って“投資”に振り切ったほうが存在価値を示せるというものだ。(次回に続く)
【2024.1.26記】代表取締役社長 澤上 龍